歴史的仮名遣ひについて
当サイトでは歴史的仮名遣ひを使用してをりますが、それは以下のやうな認識・考へによります。
①「歴史的仮名遣ひ」、「現代かなづかい(現代仮名遣い)」の原理・原則
今日、義務教育で習ふ仮名遣ひの原型である「現代かなづかい」は、昭和21年(1946年)11月16日、昭和21年内閣告示第33号により告示されました。その原則とは「現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす」といふものです(内閣告示第33号、「まえがき」を参照のこと)。簡単にいへば、「かなによる表記は現代語の音を表すためにある、かなに発音記号としての役割を求める」といふ表音主義に則つたものです。現在昭和21年内閣告示第33号は廃止され、それに代はつて昭和61年内閣告示第1号が出され、新たに「現代仮名遣い」が定められましたが、告示の「まえがき」にもある通り、基本的な考へ方は現代かなづかいと、ほぼ全くといつて良い程変はつてゐません。
一方、歴史的仮名遣ひの原則は「表記は語に随ふ」といふものです。「語に随ふ」といふ表現は、少々わかりにくいですが、要するに語義、語法、そして現代語韻までを含めた音韻等の歴史的変遷を総合的に考慮するといふことです。特に「語義を大切にする」といふ点を踏まへると良いのではないかと思ひます。その具体的意味は、この後の③で説明します。
②現代仮名遣いが持つ致命的矛盾の例:助詞の「は、へ」
現代仮名遣いは「語を現代語の音韻に従って書き表すことを原則」としてゐます。しかし、国語において極めて重要な役割を果たし、かつ使用頻度の高い助詞の「は、へ」については、「わ、え」と表記しないとしてゐます。現代仮名遣いの原則が、助詞の「は、へ」に適用されないといふことは(もつといへば、「わ、え」と書き表されることに我々が無理を感じるといふことは)、そもそも表音主義といふ原則自体に、致命的な無理があるといふことを示してゐると私は考へます。
③歴史的仮名遣ひの方が合理的といへる例〈その①〉:「地球」、「地面」、「絆」
「地球」と「地面」を現代仮名遣いで書くと、「ちきゅう」、「じめん」となります。同じ「地」であるにも拘はらず、タ行の「ち」とサ行「じ」で、違ふ行を跨いでしまふのです。
一方歴史的仮名遣ひの場合、書き方は「ちきゆう」、「ぢめん」です。この方が「地」といふ語義がはつきりとします。
このやうに歴史的仮名遣ひは語義を大切にしてゐます。それを踏まへると、語のイメージも変はつて来ます。例へば「絆」といふ言葉があります。現代仮名遣いでは原則として「きずな」ですが、歴史的仮名遣ひでは「きづな」と書きます。何故「ず」ではなく「づ」と書くのでせうか。旺文社古語辞典第十版で調べてみると、「きづな」の一つ目の意味として「動物をつなぎとめるための綱」とあります。つまり「絆」といふ単語の根底には、相手と自分を繋ぐ「綱(つな)」といふ意味があるのです。
現代仮名遣いにおいては、語義が無視されるため、語源、或いは先人がその言葉に対して持つてきたイメージと、我々との間が断ち切られてしまひます。しかし歴史的仮名遣ひにおいては、語源や先人が抱いて来たイメージを明瞭に表されてゐます。歴史的仮名遣ひは、我々が言葉の語源にまで遡ることを可能にします。
④歴史的仮名遣ひの方が合理的といへる例〈その②〉:「思ふ」と「浮き輪」
「思ふ」と「浮き輪」といふ言葉があります。この二つの言葉を現代仮名遣いで書くと「おもう」、「うきわ」となる訳ですが、さて「思う」の「う」と「浮き輪」の「う」は果たして同じ音でせうか。声に出してみると「浮き輪」の「う」ははつきりした音になるのに対して、「思う」の「う」は空気が入つたやうな弱い音になつてゐると思ひます。
歴史的仮名遣ひの場合、「おもふ」と「うきわ」と書き分けますから、この微妙な音の違ひまでくみ取ることが出来ます。歴史仮名遣ひの方が、国語使用者の生理に適ふものだと思ひます。
⑤英語の場合はどうか
日本人の言説において往々にして見られる「外国もかうしてゐるから日本も」といふ論法は、「クラスの皆が買つてもらつてゐるから」と両親に駄々をこねる小学生と同レベルの論理的必然性を欠いた論法であり、大いに警戒すべきものと私は考へます。それ故、「英語だつてかうだから」と述べる気は一切ないのですが、英語学習サイトであることも踏まへ、英語における綴りと発音についても触れておきます。
これは中学一年生でもわかることですが、英語において表記と発音がずれる場合は往々にしてあり、know , knife, walk, work等々枚挙に暇がありません。
⑥方言との関係性
歴史的仮名遣ひはその理念からして、方言を許容します。歴史的仮名遣ひは発音記号ではなく、語を表すものです。ですので、その語がどう発音されるかは地域、或いはもつといへば個々人の自由なのです。語を表すための、書き言葉であることを、その役割とする歴史的仮名遣ひは、国語における多様性を許す、懐の深さを持つと考へます。一方、現代仮名遣いは発音記号としての役割を仮名文字に求めます。故にその理念からして、ある語に対する特定の発音を、国民全員に強ひてくることになりませう。
追記:令和4年9月15日付け毎日新聞の記事に、「『を』の読み方、地域によって違う? 『うぉ』と読むのは方言か」といふものがありました。愛媛の方では「を」を「o」ではなく「wo」と発音してゐるといふ内容ですが、仮名文字に発音記号としての役割を求める現代仮名遣いの立場からすれば、愛媛県人の発音はおかしいといふことになります(それ故、多くの日本人は愛媛県人の方言を面白おかしくとらへる訳です)。しかし、発音の仕方はそれぞれに委ねつつ、古代における音韻をつづりにおける重要な一要素とする歴史的仮名遣ひの立場からすれば、愛媛の方言は寧ろ言葉における自然な一側面として包摂されます。
⑦哲学的方向性
現代仮名遣いは、現代の語音を基準としてゐます。そこにあるのは、今の我々を国語における基準と考へる、自己中心的発想です。また現代に至るまでの歴史的連続性も、絶たれてしまひます。
一方、歴史的仮名遣ひは、語義、語法、現代音韻までを含めた音韻の歴史的変遷を、総合的に勘案するものです。究極のところ、決定的に正しい歴史的仮名遣ひといふものは存在せず、これまでも藤原定家、契沖から福田恆存に至るまで、様々な人間が、どう表記するのが良いかといふことを考へ続けてきました。国語は歴史的仮名遣ひの前に、未知なる側面を秘めたまま生き続けてゐるのです。
その上で、歴史的仮名遣ひは、古代から現代に至るまで、国語を使用してきた人々の思ひ(語義、語法、発音)を、出来る限り一貫性が保たれる形で尊重しようとするものだと考へます。無論、正しいものとは何かと問ひ続けるものである以上、ある時代を恣意的に選び出してそこに固執するノスタルジックな「保守」とは一切関はりの無いものです。むしろ、相手を未知なるものと認めて、常に新しさを見出し続けるといふ姿勢が歴史的仮名遣ひの根底にはあるのです。
日々国語を学び続ける者として、私は歴史的仮名遣ひの哲学的方向性に共感を覚えてゐます。それ故に私は歴史的仮名遣ひを使はうとしてゐます。
⑧最後に
先に「決定的に正しい歴史的仮名遣ひといふものは存在しない」と述べました。では私自身何に拠つて仮名を決定してゐるかといひますと、今のところ福田恆存(ふくだつねあり)が『私の國語敎室』といふ本で表した歴史的仮名遣ひの考へ方に則つてゐます。勿論あくまでも「今のところ」であり論理的反論があればより良い歴史的仮名遣ひに、場合によつては歴史的仮名遣ひの使用そのものでさへ、幾らでも改めるつもりです。固定化した何かを守り続けることではなく、論理的に考へて常に学び続けることに、歴史的仮名遣ひの本質はあると考へます。